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血の記憶 3

季節の変わり目は いつも雨だ。



夏から秋。
日に日に短くなる日照時間と戦った後、
書類を鞄に仕舞い、鍵をかけて抱え込み、帰路に着く。
一週間前まではあれほど暑かったのに、
急速に冷えていく。
部屋の隅に置いていたサモワールも、部屋の中央に鎮座している。
急がねば。
討議の結果を待つ同志達に早く知らせねば。
白夜に慣れた身体を追い立て、無理やり急ぎの用件に合わせた。
その後は、急降下で睡魔に襲われ、長雨でなかなか起きられない。

あるいは
春から夏。
雨降る季節と知りつつも、不意にやってくる雨将軍と
日に日に長くなる日照時間に従い、長引く議論に頭を抱える。
それでも
次の一手を見出した時、頬の高揚を抑えきれず
石畳を駆け抜ける。
夏が来る。
洞窟に押し込められたかのような長い長い冬が終わる。
青葉の爽やかな空気に満ちた季節がやってくる。
晴れやかな日差しで心身を洗う季節がやってくる。


 ☆

「おかえり。
今日は冷製スープを作ったよ。」
柔らかい笑顔で、俺を迎える妻・ユリウス。

この国の様子も知らぬまま記憶を失った妻にとって、
俺との暮らしが、生活の全てとなっている。
それでも
市場、近所の人々、同志達との付き合い...
彼女なりに世界を広げ、かなり遠くまで出歩くこともあるようだ。
書籍を求め、楽譜を求めて。

「アー、ベー、ヴェー、ゲー、デー、…」
同志の子供をあやそうと、キリル文字を読み上げる彼女は
遠い昔、音楽学校で聖書を暗唱していた真摯な姿そのままだ。


   ☆

身体の芯から冷える祖国の冬。
帰国して暫く、俺の身体は祖国の冬を思い起こすことに時間を要した。
祖国への熱い思いとは裏腹に、俺の身体は芸術という清冽な湖に満ち満ちていた。
例え、ストラディバリを自らの意思で手放しても、音の響きは身体に残った。
そして、
数年間、獄に繋がれた後も尚、
身体の片隅に、音の破片は潜んでいた。

そのことに気づいたのは
冬から春。
一雨ごとに暖かな風が吹く頃。

ユリウスと暮らし始めて一年を過ぎ、
積雪は徐々に少なくなリ始めていた。

俺は 家に持ち帰る書類を最小限に留める術を身に着け、
人目に付かないよう、裏道を辿り歩いた。

日没が未だ早いこの季節は
自宅での業務が多い。
そして、
闇に紛れて歩くことは
安全でもあるが危険でもある。
一度、追われれば、その闇をも敵に回しかねない。
結局、夕暮れ時が一番の味方。

しかし、裏道から自宅のあるアパートへの道へ一歩踏み出した時、
肩に雨粒がかかり始めた。

俺は
いつも忘れる。

季節の変わり目には雨が降ることを。

詰めが甘いと年配同志に何度も指摘されたことを思い返す。
俺は
小ぬか雨の中、
苦笑いしながら
鞄を抱え、小走りになる。


そんな俺の前に
突然、
ユリウスが現れた。

「アレクセイ!」

どうしたんだ?と聞く俺に、
ユリウスは息せき切って、「近所の子供が紅茶をひっくり返して手に火傷をした」と言う。
外の雪を両手一杯掴んで、自分の手を使って雪でその子の手をくるんだのだと言う。

「お前…」

ユリウスの手は、凍傷になりかかり、尚且つ、右手親指の付け根が血で滲んでいた。

波打つ金髪は、雨がもたらす湿度で水をいよいよ含み、
穏やかに、あるいは、激しく曲線を描いている。

「ふふ、ふふふ…」

介抱を終えた満足感で痛みも感じないのか、
ユリウスは歌うように微笑んでいた。

不規則に降る雨が、ユリウスの血の滲みを広げていく。
その血の匂いは、遠い昔と全く同じ匂い。

-ヴァルハラに駆け込み、
倒れたユリウスを介抱した時。
彼女の腕から
ほのかに、
漆黒と真紅が同居する鉄を含んだ匂いが立ち昇った。
それは
彼女の腕に巻きつけられた包帯に沁みこんだ
彼女の血の匂い。

しかし春を呼ぶ雨粒は
彼女の腕に滲む血の禍禍しい匂いを
新芽の匂いへ変えていく。
同時に、
潔く切られた短かい金髪に、
滑らかさを加えていく。


瞬時に変わる彼女は
季節の変わり目に降る雨と同じ。
注意の外側から突然やってくる。



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by greenagain2 | 2013-09-08 16:05 | 血の記憶
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