「アレクセイ、もうそろそろ着替えて。」
「開演まで、まだ一時間あるだろう。」 「開場まで、あと一分よ。」 楽団マネージャーの歯切れのいい話し口は、義姉を思い起こさせる。 「俺、本当はチェロもやりたかったんだ。」 「心にもないことを言うな。」 「本当だぜ。お前が弾いているのを聴いて、チェロもいいものだなと思ったもんだ。」 希少本の仕入れで足を踏み入れたモスクワで、 懐かしい後輩と再会した。 後輩というより、寝食を共にした友と言った方がしっくりとくる。 予想通り、「クラウス・フリードリヒ・ゾンマーシュミット」は偽名だった。 実の名は「アレクセイ・ミハイロフ」。 私、ダーヴィト・ラッセンは昔、寄宿舎でクラウスと夜通し行ったカードゲームに クラウス-アレクセイ-と、再び興じていた。 「で、どうなんだ?実の所。」 ダーヴィトが口火を切る。 「騙し騙しやってる。」 手がうずく。モスクワ蜂起でやられた古傷とは、一生付き合っていくと決めた。 俺の決意に、ダーヴィトはうなづき、俺に同意した。 「もう、参加しないのか?」 「ああ。」 もう、ボリシェビキとして活動はしない。 街の片隅で、名もない演奏家として生きていく。 時に誘われる楽団に参加し、演奏することもある。 寄り合い所帯で、演奏会が終われば二度と会うこともない演者と俺。 だからこそ、同じ時と空間を共にするひとときを愛おしむ。 思慮深く賢い俺の先輩であり悪友でもあるダーヴィトは、俺の思いを既に察知していた。 「それでも・・・」 その先、言葉にならず正面のカードを見つめるアレクセイに適切な言葉をつい与えてしまうのは、曲がりなりにもアレクセイよりは学年が上だったから、という理由が大きい。 「奴は喜んでいるだろう?」 「ふふ…どうだかな。あいつ、まだ本調子では無いから。」 ユリウスは今、数年来の栄養失調で体調を崩し、一日の殆どを家の中で暮らしているという。 恐らくは、栄養失調だけでなく、長年の異国暮らしが彼女に有形無形の打撃を与えたのだろう。 「ユリウスは、相変わらず無茶なことをしているのか」 「昔よりは大分減ったぜ。無茶をすると身体を壊すことがようやく分かったらしい。」 ここで初めて、私とアレクセイは苦笑しあう。 「ユリウスは本当に安静にしているのか。」 「譜面を写したり、後回しにしていた本を読んでいるぜ。」 学生時代の彼女が甦る。 私は部屋の窓から空を仰いだ。 「開演30分前よ。」 「わかった。」 ダーヴィトとのカードゲームを切り上げ、ダーヴィトに「しっかり聴けよ」と言い、楽団員の所へ向かった。 兄貴と同じ位の髪の長さになった理由は、兄貴の魂に触れたかったから。 ボリシェビキ時代と同じジャケットを着ているのは、俺がボリシェビキとして活動したことを俺が忘れないため。 *** 「アレクセイ、演奏するんだね。」 「なんでわかるんだよ。」 「お兄さんの形見でしょ?その上着。」 ユリウスもダーヴィトと同様、お見通しだった。 「アレクセイ、早く!」 促しの声に素直に従い、俺は舞台に足を踏み入れた。 幕が上がる前の数分、 俺は、演者達と沈黙の時を共有した。 (終) ☆web拍手 web拍手とは
by greenagain2
| 2012-04-30 23:41
| 窓の隙間
|
★web拍手
web拍手とは ★greenagain's sketch アート探訪記 ★漫画、イラスト、写真、文章の無断使用・無断転載を お断りします Copyright(c) greenagain2 All Rights Reserved. 以前の記事
カテゴリ
全体 はじめに お知らせ 目次 窓の隙間 夏出づる星 溢れる光(夏出づ・番外編) 僕を見ている 僕を探して 春夏秋冬 痕跡(春夏秋冬・番外編) 邂逅 運命 声を聴かせて 金の相克 父と娘 疾走 道づれ 海に語らう 離した手・離れた手 音楽 窓にまつわる話 窓分析 コラボ リンク 楽屋裏 ユリちゃんのロシア語勉強 装い 漂流 約束 アレクセイとロシア語と 愛しのおばあさま 扉をあけて 血の記憶 未分類 その他のジャンル
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||