人気ブログランキング | 話題のタグを見る
<< 漂流(2) 潜伏 リンク >>

漂流(1) 暗黙の了解

冷気を伴った風が頬に突き刺さる。
自分の髪で頬を覆おうとして、うつむくと
髪もまた冷たかった。

速度を増していく自分の足を守るのは
黒革のロングブーツ。

冷たい頬を、暖かい頬へ回復させることを諦めたユリウスは
空を見上げた。

ユリウスを取り囲んでいた高層ビル群が空に向かっていた。
しかし、流石に空の方が遥かに広大だ、
ビルの頂上は空の天井には届かない。

届かない。

ユリウスは、突然立ち止まり、
ショルダーバッグに入れていたThe Wall Street Journalを取り出し、見返した。
故国に発生した不測の事態を大々的に告げる見出しが踊る。
一呼吸して自分を落ちつかせた後、
ショルダーバッグの中から
スマートフォンを取り出した。
素早く開いた最新ニュースは
事態の更なる悪化を告げていた。

ユリウスは、間髪入れずに今まさに目指していた支局に電話を入れた。

「本社との連絡は未だつかないが、
本社との調整は、支局に詰めている者で対処できる。
君は自宅で待機し、何処へも飛べる用意をしておきなさい」

反論する前に電話は切られた。
自分は必要とされていないのか?
ユリウスは、足元に目を落とした。
黒革のロングブーツが放つ勇ましい光が
無機質な灰の歩行路になじまず浮いている。

いや、違う、
担当部署の人達が既に昨日夜半から詰めていたじゃないか、
昨日、僕は、出張先で第一報を目にして、すぐに支局に電話をしたが繋がらなかった。
取引先の人達は、僕の故国や会社を案じて、早々に話を詰めてくれた。
僕が焦っていただけなんだ。

目的地を失ったユリウスは、
灰の歩行路を、かすかに靴音を鳴らし 僅かに速度を落とし歩いた。
膝下を 黒のトレンチコートの裾がかすめる。
ブーツからわずかに顔を出した膝小僧が冷たい。

黒革のロングブーツも黒のトレンチコートも、必要に迫られて選んだ。
首尾よく業務を遂行でき、寒さを凌ぐことができ、扱いやすく無理のない衣類と靴。
帰宅途中の店で、素早く選び、翌日身に着けた。
出勤前、ショルダーバッグの中を確認していると、
夜勤明けで仮眠していたアレクセイが起き出し、ポツリと言った。
「膝小僧、寒くないのか?」
「膝小僧?」
そんなこと、考えたことなかったよ、と口にする前に
アレクセイがユリウスの背に両手を回し、自分の胸に引き寄せ
ユリウスの背に流れる金の髪を、背骨に沿って撫ぜていった。


冷たいよ、膝小僧。


ユリウスは立ち止まって、声を殺して空に向かってつぶやいた。
そして、ビル群に沿って足早に歩くビジネスマン達の背に、心の中でささやいた。

-この街は摩天楼の街として世界中から羨望の眼差しが向けられる。
この街への赴任を告げられた時、胸の高鳴りが無かったと言えば嘘になる。
事実、この街は 自分から何かを投げかけねば殺される街だ。
思い立ったら行動せずにはいられない自分には合っていたと思う。
けれど、故国に起こった未曾有の被害に立ち向かうことができない今、
この摩天楼は、過剰な装飾として自分の身を緊縛する。


冷気を伴った風が、再び頬に突き刺さる。


帰ろう。
帰らなければ。

携帯を取り出すと、
滅多に発信することのないアレクセイからのメールが入っていた。


速度を取り戻したユリウスは、トレンチコートの首元を押さえつつ
メトロ駅の標示版を目指した。
その道中、大通りの角を曲がると、細い裏道が続き、
フランスや故国、イギリスなどを母国とする店主達が営むカフェが並んでいた。

そういえば、
今回、故国での災害が発生する数日前、
外出先での仕事を終え、支局に戻る前に
息を整えるため、裏道沿いの行きつけのカフェへ行こうと
大通りの角を曲がったとき、
男の広い胸と自分のおでこが衝突した。
驚いて顔を上げると
アレクセイだった。

「今日の『本日の珈琲』、お前のお気に入りだ」
「本当?」
「豆も挽いてもらった」
アレクセイがカフェの袋を両手に一袋ずつ持ち、掲げて言った。
「お前のお気に入りと、俺のお気に入り。」
「ありがとう!」

灰茶のコートをまとったアレクセイは
目を細めて、大きな口で微笑んだ後
ユリウスに背を向けつつ左肩を幾分挙げて「じゃあな」と告げた。

その日、風は冷たさを残していたが
寒くはなく、空気は乾いていた。

歩く人達の顔ぶれも
ストリートに並ぶ店の雰囲気も
昨日と同じ、明日もきっと同じ雰囲気だろう。
ここは世界からの羨望を集める堅牢で美しい街だから。

そんな暗黙の了解が、数日前には 存在していた。



アレクセイ、君が買ってくれた珈琲は未だある?
今日、帰ったら、ゆっくりとお湯を落として
君と目を合わせながら、飲もう。



web拍手
web拍手とは
by greenagain2 | 2011-04-02 21:37 | 漂流
<< 漂流(2) 潜伏 リンク >>